〜霧ヶ峰の魅力を次の世代まで〜特定非営利活動法人 霧ヶ峰基金

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5.〜尾花ふく穂屋のめくりのひとむらに しばし里あり秋の御射山〜 御射山祭往時をしのぶ歌
 霧ヶ峰と人とのかかわりは古くからあり、旧石器時代までさかのぼることができます。
特に旧石器時代の遺跡が多く分布していまが、それは、本州最大級の黒曜石の原産地である和田峠が近いことが大きな要因といえます。この時代、和田峠産の黒曜石は、関東甲信越地方を中心に、半径約200kmの広さに運ばれています。主な遺跡としては、八島ヶ原湿原の畔にある八島遺跡群、池のくるみ遺跡群、ジャコッパラ遺跡群などがあり、ジャコッパラ遺跡群では縄文時代の落とし穴が多く見つかっています。また、黒曜石の流通の中継地とともに、狩りの場としても利用されていました。
 文献に霧ヶ峰にかかわる地名として「御射山(みさやま)」が記される様になったのは平安時代の終わり頃からです。「御射山」とは、諏訪神社の奥社として祭られ、奉納するための狩猟神事である御射山祭が行われた場所です。諏訪神社の上社と下社それぞれに御射山が設けられておりますが、当初、下社御射山は霧ヶ峰(現在の旧御射山(もとみさやま)神社付近一帯)に設けられていました。
 江戸時代に御射山が現在の下社近くに移されるまで、中世、特に鎌倉時代には幕府の保護を受け、盛大な御射山祭が現在の旧御射山付近で行われ、諏訪明神に奉納されていました。御射山祭は数日に渡って行われたため、参加者は尾花(ススキ)で葺いた仮屋で宿泊していましたが、この季節のススキには穂が出ていたため、この仮屋は“穂屋“と呼ばれました。そのため、御射山祭は”穂屋祭“とも呼ばれます。
現在、旧御射山神社のすぐ脇の斜面には、造成したようなきれいな土壇を見ることができますが、これは”穂屋“が掛けられた場所であるといわれています。
 室町時代の勅撰歌集玉葉和歌集には、盛大に行われていた御射山祭の往時をしのぶ歌として、下社大祝(おおほうり)の金刺久盛が詠んだ「尾花ふく穂屋の・・・」が撰ばれています。
雪が残る土壇
雪が残る土壇
参考文献 ※「下社御射山遺跡 御射山祭の話;伊藤冨雄;ヒュッテ御射山」
4.気候と湿原の意外な関係
6.人々がつくり、花々が咲き、鳥たちがうたう
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